女性候補の価値を考える

 宮城県の三つの市議会議員選挙の全てで、新人女性がトップ当選だ。
 東北地方は自民党が弱いなどと言われることもあるが、本来政治的には保守的な土壌だ。およそ三十年野党基盤を構成した小沢一郎、渡部恒三、鹿野道彦、田名部匡省らの各氏は自民党離脱組であり、元々強固な保守系地盤に支えられた政治家たちだ。
 そんな政治的風土の、しかも都会ではない土着型選挙が未だに主流であろう地方で、三つとも女性新人がトップというのはやはり快挙だろう。社会的に地位ある人の女性蔑視発言があったとか、女性進出が命題とされる昨今の社会的状況があったとか、当たっているようでいて、どこかピントがズレているような気がしてならない。それは私が全国各地の田舎型土着選挙を見過ぎているからだろう。
 前提としてあるのは、少なくとも今は「優秀な女性は、優秀だと思われる」時代になったということだ。昭和のある時期、あるエリアや分野では、優秀な女性はアホだと考える人たち、組織が確かにたくさん存在していた。
 もう一つは、有権者のニーズに対して、候補者としての女性が圧倒的に足りていないことである。
 私は「候補者としての存在価値」というワードをよく使う。それは政策が立派だとか、人格が優れているということではなく、「サラの状態で投票してもらえる要素」を言う。例えば首長選で、ほぼ同じレベルの能力、経歴、容姿の候補者が5人いて女性候補が一人だけなら、女性候補の存在価値は他候補に比べて4倍ある。男と女の有権者はほぼ半分づつだからだ。だから男性候補は、必死で性別以外のテーマを主流にしようとする。そして自分が際立つ選挙テーマを探し込み、有権者やマスコミに訴える。「さあ、男だとか女だとか言ってないで、この選挙戦はこんなテーマで戦おうじゃありませんか」というように。
 街を二分するような大問題、例えば特定企業や施設の誘致を進めるか否かが問題となった首長選の場合、誘致派候補は一人なのに、誘致反対派が二人を立てるバカ戦略はないだろう。候補者としての存在価値はそれと同じである。
 女性は向こう十年くらいは、無条件に候補者としての存在価値があるはずだ。複数が当選する議員選挙はもちろん、首長選や小選挙区においても多くの女性候補は黙っていても選挙的存在価値を所有する。
 あとは政策や政治哲学に揺るぎない信念をどのように示せるか、にかかっている。「女性の時代」「社会進出のお手伝い」なんてフレーズはどうでもいいが、本質的価値と真意が伝われば当確まっしぐらだ。
 

コメント

タイトルとURLをコピーしました