辞職議員から考える候補者としての存在意義

「しゃべるな、しゃべるなですよ。私は安倍派の介錯人になる」と言っていた宮沢博行議員の辞職は、例によって女性スキャンダルだった。どうして議員連中はこの問題に関して学ばないのだろう。ネット社会の拡散による致命的なイメージの張り付き、今の暴露しやすい環境を知らないわけでは無いだろう。それを乗り越える知恵と覚悟を持って事に当たれと言いたくなってくる。
 離党するに伴った辞職だそうだ。比例で上がったからには政党の議席であり、議席を返上すべきだと正論を述べていたが、ツラの皮が鉄板でできているパパ活男、吉川たける議員などはこれを聞いても屁のカッパなのだろう。それに比べると宮沢議員の「記憶にございます」は妙に清々しく聞こえてしまう。
 「恥ずかしい」「静岡のイメージが悪くなった」と当然の批判の一方で、同級生らによる擁護らしき声もマスコミを通じて聞こえてきた。「まっすぐ、バカ正直な男」「愚直と努力の人」という意見だ。この(マスコミを通じて)というところがミソで、もし宮沢氏の世論形成だったったとしたら、彼は大した戦略家だと言える。3〜4人で争われる小選挙区ならば、復活の可能性すらあると思う。3人くらいから一人の支持を得られる選挙区になったなら、当選はあり得るからだ。
 私はよく〝候補者としての存在意義〝という話をする。それは資質的に価値ある候補者であるか否か、を問題にしているのではない。何パーセントの有権者に好かれる素地があるか、そのパーセンテージは当選に届く可能性があるのかどうか、といった数値が問題なのである。
 例えば東京15区の補選に出馬した乙武候補は「批判の的になる」という理由で、自民党の推薦を自ら排除した。そして自民支持者を怒らせた。しかし九人が出馬した乱戦選挙だ。そして勝った立憲の得票率は28、9パーセントだった。「乙武のような弱者に徹底して優しい政治家が政権政党にいてもいい。私はそう言われる政治家になりたい。私は深い反省のもと十字架を背負って政治に邁進していきます」そう言って頭を下げ続けたら、公明党の婦人部だって変化したかもしれない。
 どっちみち反自民票が乙武氏に来るなんてことはあり得ない選挙構図だ。一説によると国民民主の反対が自民推薦を蹴った理由の一つらしいが、それが本当ならば本末転倒も甚だしい。勝つにしろ負けるにしろ、自民の色がベッタリと張り付いた乙武候補には道が一つしか無かったのだ。候補者としての存在意義を計算しなかった一例だ。
 もっとも宮沢議員の跳ねっ返り、ヒーロー気取り的な発言を苦々しく思っていた自民重鎮の週刊誌へのリークだったという話もあるが‥。

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